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反町駅前通り商店街のご紹介②(YOKOHAMA商工季報2019秋号)

反町駅前通り商店街:まちの歴史編

 横浜駅から徒歩約15分という立地条件、反町駅前通り商店街の賑わいなどによって抜群の住みやすさを誇る反町。今回は、非常に興味深いその成り立ちを紐解いていきましょう。

●開港騒動で歴史の表舞台へ

 遡るは江戸時代。歌川広重の浮世絵でも知られる東海道五十三次の「神奈川宿」があったのが現在の反町公園のすぐ東側、神奈川区本町あたりです。
 この界隈が歴史の表舞台に登場するのは幕末のこと。1858年に日米修好通商条約が結ばれ、宿場町として隆盛を極めていた「神奈川湊」の開港が決まりました。
 けれども幕府は、江戸に直結する大動脈・東海道を開くことへの警戒心もあり、横浜の開港を強引に推し進めました。神奈川開港にこだわった初代駐日公使・ハリスは、横浜ではなく神奈川へ上陸。条約実施当日には、現在の反町駅から程近い本覚寺墓地にある大木に米国旗を掲げたそうです。
 結局、幕府は横浜開港で押し切りましたが、アメリカは本覚寺、イギリスは浄滝寺、フランスは慶運寺……と、各国の領事館は一時期おしなべて現在の反町近辺に置かれていました。この神奈川宿は、残念ながら1868年の大火で壊滅的な打撃を受けてしまいます。

●反町の繁栄と横浜大空襲

 1900年、県令によって現在の栄町近辺から反町に歓楽街が移転してきました。場所は、現在の反町公園の南西側で、いまも残る鰻の「菊家」の脇に大門があったと言われています。こうした歓楽街の近隣には自然と商店や飲食店が集まるもの。反町でもこの界隈を中心に大きな賑わいが生まれました。
 第二次世界大戦によって衰退するまでの約40年間、この歓楽街が町の賑わいを支えたと言っても過言ではありません。
 賑わう反町一帯が壊滅的な被害を受けたのは、1945年5月29日の横浜大空襲です。当時17歳だった小川壽々子さんが克明に語ってくれました。
 「戦時中、町内の人たちで歓楽街の中の空き地に100人くらい入れる防空壕を掘ったんです。横浜大空襲のとき、この防空壕にもたくさんの人が逃げ込んだのですが、町は全焼しました。私は町の外に出勤していたので難を逃れましたが、あの防空壕に逃げ込んだ人たちは助からなかったのでしょうね。終戦があと数カ月早かったら、反町の歴史はまた違うものだったと思いますよ」。

鮮明な記憶をもとに、当時の状況を
語って頂いた小川壽々子さん

●焼け野原からの復興、そして現在の賑わいへ

 空襲を生き延びた人々は焼け野原に戻り、現在の反町駅前通り商店街や松本通商店街、松本三丁目商店会をゼロからつくり上げました。復興は早く、終戦から4年後の1949年3月には、神奈川県と横浜市の共催で日本貿易博覧会が開催されています。
 第一会場は野毛山公園、第二会場は現在の反町公園から桐畑にかけて。博覧会終了後、その跡地のひとつが反町公園となりました。ジェットコースターなどもあり、敗戦後の子どもたちを笑顔にしたようです。
 その頃から商店街も賑わいを見せるようになりました。どの家庭でもまだまだ日用品が不足していたため、店頭に並ぶものはなんでも飛ぶように売れた、と商店街の方々は当時を振り返ります。
 また、戦前に歓楽街が栄えていた名残で、戦後も多くの飲食店が建ち並びました。大型スーパーマーケットなどなかった時代のこと、これらの飲食店は近隣の個人商店に鍵を預けており、朝になると酒屋は酒を、八百屋は野菜を…とめいめいの商店が飲食店の裏口を開けて商品を納めていた、と言われています。

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東京オリンピックの聖火ランナーが反町を通過(1964年)
 1957年には国道1号のバイパスである横浜新道が開通しました。現在の反町駅前通り商店街は、この国道を隔てて店舗が並んでいます。
 「町の真ん中を国道が通ると、住んでいる人たちも分断されてしまうでしょう。町は狭いなりに繁盛していたから、国道建設には反対した人もたくさんいました。でも、戦後の繁栄は国道があってこそ、という一面もありましたね。東京オリピックのときに、ここを聖火ランナーが通ったのもよく覚えていますよ(小川さん)」。
 こうして歴史の波に翻弄されてきた反町ですが、町を盛り上げてきたのはいつの時代もここに住む人々でした。先祖代々からの住民だけでなく、横浜市中央卸売市場へ働きに出ていた人たち、日本鋼管の浅野ドックや三菱重工横浜造船所に出勤していた独身寮の住人たちなど、多くの住民が商店街を使っていたことも町の繁栄に大きく寄与しました。
 焼け野原をゼロから建て直した人々の〝反町愛〟は、昭和から平成を経て、現在にも確かに引き継がれています。

反町交差点付近(1955年ごろ)
東京オリンピックの聖火ランナーが反町を通過(1964年)